自己紹介に代えて
みたまや きよしの物語の成り立ちについて
申し述べます

   子供たちはみんな夢想家です。そんな子供を見て、大人たちは“感性が豊かだ”とか、夢の内容によっては“大志を抱いている”とか言って大仰褒めます。ところが、いい歳をした大人が空想に浸っていると、“妄想癖”だとか“浮世離れ”だとか言って冷ややかに後ろ指をさします。いや、面と向かって貶されることだって決して少なくありません。こんなことっておかしくありませんか?
 ヒトは誰だって旺盛な好奇心と豊かな想像力を持っています。どんな些細なきっかけであっても、それを出発点とした事態の進展について無数の可能性を想像できるのです。また、そうせずにはいられないのです。貴方だってそうでしょう? 考えようによっては、科学的な実験計画だって、途轍もなく大きな土木工事の設計だって、世紀の大発明のアイデアだって空想の所産といえなくはないのです。空想は子供だけに許されたことではない筈です。
 ところで、大人は時として自己点検の必要に迫られます。あの態度や言動、あるいは分析や判断には自分自身では気付いていない“もう一人の自分”が関与してはいなかっただろうか? フェアに振舞ったつもりだがいかにも人間くさい小賢しい感情が無意識のうちに働いてはいなかっただろうか? そんな疑問がふっと心を過ぎることがあるからです。こんな時、みたまや きよしは一般的な方法論によってそれを理性的に検証するよりは、あらぬ空想に耽ってしまうのです。もしも自分が今のままの自分ではなかったら・・・もしもあの人が今のままあの人ではなかったら・・・もしも環境や状況が今とは全く違っていたら・・・。この“もしもの世界”は無限に広がって行き、時には収拾がつかなくなって、目の前で両手をパチンと鳴らして自らを覚醒させなければならないことすらあります。でも、多くの場合、ただ論理的に考察するよりは、たとえ僅かではあっても物事をより深くあるいは幅広く捉えることができるようになると思います。
 それと同時に、この過程で様々な空想が組み合わされて、自ずと脈絡のあるストーリーが形成されていきます。みたまや きよしの物語はこんな風に出来上がったものなのです。物語が書きたいという欲求ではなく、空想を巡らせたことによって生れ出た物語を書き留めておきたいという欲求の産物といえます。従って、みたまや きよしの物語は、誰でもが経験したり見聞したりするようなちょっとした事柄を題材とした、ほんのちょっぴり内省的ではあるが極めて軽いもので占められています。また、その成り立ちからして当然のことなのですが、ファンタジーやSFといった範疇に分類されるものが多くなっています。勿論、一見空想とは無縁の極めて現実的な普通の物語りもありますし、内省的な部分がすっかり素っ飛んでしまったハチャメチャな漫文もあります。
 兎に角、空想というか、恰好よくいうなら、“物思う”ことはとても楽しいことです。ただ、ちょっとだけ注意を要することもあります。それは、“もしもの世界”では過去の自分を絶対に否定してはいけないということです。過去は絶対にあるがままであるからこそ無条件で正しいのです。それに、もし過去を正しくないと考えると、現在“もしもの世界”に漂っている自分自身の立脚点を否定することになり、その世界で得られたことも全て否定しなければならない、即ち過去が正しくなかったという結論をも否定するという自己矛盾に陥ってしまいますからね。と言う訳で、皆さんも過去を全てあるがままに受け入れた上で意識して“物思って”みませんか? みたまや きよしの物語がそんな試みの参考になればとっても嬉しく思います。
 そこで、有料なので恐縮には思いますが、ご希望の方には作品原稿のプリントアウトを送らせていただきます。先ずは、作品案内をご覧になってください。