連載コーナー


『明日の日記』 最終回


  二人はジュ−スしか飲まないでいたが、先輩たちは酒やビ−ルをしこたま飲んでいた。ということで、しつこい酔っぱらいに捕まって、二人は夜遅くまで付き合わされたのであった。しかも、酔っぱらいたちに少量とはいえ飲めない酒を無理矢理飲まされてしまったのである。二人が解放されたのはもう十一時を回っていた。二人は千晶(ちあき)の家の方に向かって川原を歩いていた。アルコ−ルの影響で、史郎(しろう)は『明日の日記』に悲しい言葉を書きつけたことをすっかり忘れてしまっていた。
 「遅くなってしまったね。酔っぱらいはしつこいんだから、同じことばっかり質問して、嫌になるよ。」
 「本当ね。でも、私自身があんな演技ができるなんて不思議だったから、先輩方の疑問も尤(もっと)もだわ。」
 「・・・君は恋愛ごっこをしながら一生懸命イメ−ジを膨(ふく)らませていったんだろう?」
 「・・・あれは、そうとしか言いようがなかったから・・・」
 「でも、配役が決まったとき、公演が終わるまでは恋人として扱うって言ってたじゃないか? その成果なんだろう?」
 「確かにそう言ったわね。」
 「理想が高い君が、僕みたいな変人に良く我慢できたね?」
 「・・・我慢なんかしなかった。」
 「それほど、役作りに専念してたんだ・・・君には、先輩が言ってたように、本物の才能があるのかもしれないよ。」
 「私に役者の才能なんてないわ。それは自分が一番良く知ってる。それより、あなたこそ才能があるんじゃない? だって、私みたいな口の悪いお転婆を相手にしてあんな演技ができるんですもの。」
 「・・・・・僕に才能なんかないさ。そんなことは自分自身が良く良く承知してる。」
 「さっきから、二人で同じことを言ってるみたい。」
 「ああ、僕もそう思う。」
 「あなた、何か隠しごとでもあるの?」
 「ど、どうしてそんなことを訊くんだい?」
 「だって、私と同じことを言うから・・・」
 「えっ? どういうこと?」
 「・・・鈍感ねぇ。私が隠しごとをしてるってこと。」
 「えっ? どういうこと?」
 「・・・本当に鈍感ねぇ・・・私がみんなに褒(ほ)められるような演技ができたのは・・・私が実際に恋心を必死で押し殺していたからだってことよ。」
 「えっ? どういうこと? 君は誰かに本当に恋をしていたの?それを隠してたっていうの? 君が本当に誰かに惚(ほ)れてたなんて気付きもしなかったよ・・・だとすると、僕はそいつに悪いことをしてしまったね。君と散々キスしちゃったもの。」
 「・・・呆れるほど鈍感ねぇ・・・才能のない私には、他の誰かじゃあんな演技はできないわ。目の前にその人がいたからできたんだわ。」
 「・・・君、何を言ってるの?・・・・・君が惚(ほ)れた奴って・・・まさか、僕のことかい? そんな筈はないよ。だって、頭の螺子(ねじ)が緩んでる変人の偏執狂(へんしゅうきょう)だって言ってたじゃないか。」
 「キスアレルギ−が直ったときに気が付いたの。散々あなたの悪口を言ってたけど、それはあなたを表面的にしか見ていなかったからだって。あのときから、私は優しいあなたが好きになったの。でも、あなたはお転婆の私なんか嫌いだって分かってたから、じっと我慢してたの。最後まで言わない積もりだったけど、言っちゃったわ。でも、忘れてちょうだい。私は口の悪いお転婆なんだから。」
 「そ、それは本当?」
 「ええ。でも忘れてちょうだい。迷惑でしょう?」
 「い、いや。迷惑じゃない。僕も隠しごとをしてた。それに、君も鈍感だ。」
 「えっ? どういうこと?」
 「僕も、君が今言ったのと全く同じだったんだ。僕も君が好きになってしまったんだ。だけど、理想が高い君には迷惑だろうと思って黙ってたんだ。僕もあのキスアレルギ−事件のときに気付いたんだ。それまで、君を表面的にしか理解していなかったって。」
 「まぁ・・・嘘みたい。二人とも馬鹿みたい・・・」
 「それに、この際だからみんな白状しておくよ。君のキスアレルギ−だけど、あれは本当は僕が細工したんだ。覚えているかい?蛸焼きのことで仏頂面をしていたときに、君に話したろう、『明日の日記』のことを?」
 「ええ、覚えてるわ。書いたことが実際のことになるっていうインチキ日記のことでしょう?」
 「そう。でも、あれはインチキじゃなかったんだ。本物だったんだ。それで、君がやたらとキスして来るんで、あの日記に君がキス嫌いになったって書いたんだ。それで、君はキスができなくなったんだよ。でも、あんまり君が思い詰めてたから、あれは間違いだったって訂正したんだ。御免よ。あのときは君の恋愛ごっこが鬱陶(うっとう)しかったんだ。」
 「・・・そうだったの・・・じゃぁ、私があなたを好きになったのも、あの日記でなの?」
 「それは絶対に違うよ。君に惚(ほ)れて、余程そうしようかと思ったけど、君の意思を勝手に捻(ね)じ曲(ま)げるようなことはできないって我慢したんだ。だって、そうだろう? もしそうしていたのなら、僕が君のことを好きだってことを隠す必要なんかないじゃないか。」
 「・・・確かに、そうね。じゃぁ、あなたはあの日記をもう使ってないのね?」
 「ああ、くだらない悪戯(いたずら)にはちょこっと使ったけど、大事なことには使っちゃぁ・・・いない・・・・・ことはない。いけない! いま何時?」
 「十二時十五分前よ。でも、何を慌(あわ)ててるの?」
 「大変だ。走って、千晶(ちあき)!」
 「ど、何処へ行くの?」
 「僕のアパ−ト。説明は後で。行くよ!」
 史郎(しろう)は千晶(ちあき)の手を取って猛然と走り出した。千晶(ちあき)は訳が分からなかったが、夜中の町中に一人で放り出されては困るので、必死で史郎(しろう)に付いて行った。

 史郎(しろう)は道路の斜め横断は勿論、信号が赤であろうがそんなことなど気にすることなく、アパ−トへの最短距離を一気に駆け抜けた。途中、大きな犬が吠えて足にまとわりついて来たが、図らずもその鼻面を蹴飛ばすことになってしまった。キャインと犬が尻尾を巻いて逃げだした。息が切れて足が重くなってきた。もう駄目かと思ったときに、横町の蛸焼き屋の“蛸八”の前を通り抜けていた。
 もう少しだ。喘(あえ)ぐようにしてアパ−トの階段をよじ登り、もどかしく思いながら部屋の鍵を取り出す。暗くて鍵穴に上手く鍵を入れられない。やっとのことで、ドアが開いて照明のスイッチを入れる。グロ−スタ−タ−がやけにのんびりと点滅して、蛍光灯が点いた。隣の部屋のラジオかテレビか知らないが、時報の案内音を発している。プップップッと聞こえたところで、『明日の日記』のペ−ジを引っ掴みベリッと千切(ちぎ)り取った。その途端(とたん)にプ−ッと間の抜けた時報が鳴った。
 史郎(しろう)は畳の上に倒れ込んだ。完璧に酸欠だ。千晶(ちあき)も酸欠らしく玄関で喘(あえ)いでいる。五分ほどそうしていて、ようやく声を出すことができるようになった。
 千晶(ちあき)が途切れ途切れに訊ねた。
 「史郎(しろう)さん・・・一体・・どう・したの・よ?・・・死ぬかと・・・お、思ったわ。」
 「ご、御免・・・大変なことを・・思い出したんだ・・・これが本当になっていたら・・泣くに泣けないところだった・・・」
 「あの日記ね?・・・何を書いたの?・・・ちょっと、見せて・・・“僕が千晶(ちあき)に惚(ほ)れたのは・・幻想だった・・芝居の稽古で何となく・・そんな雰囲気に・・浸ってしまっただけだったのだ。”・・・何よ、これ?」
 「君が僕のことを思ってくれてるなんて知らなかったから、だから、そっと身を引こうとしたんだ。でも、間に合って良かった。」
 千切(ちぎ)り取られた日記のペ−ジには実現しなかった“明日”が文字として残されていた。史郎(しろう)は千晶(ちあき)からそれを受け取ると細かく破ってごみ箱に捨ててしまった。
 「馬鹿ね、史郎(しろう)さん。」
 「ああ、大馬鹿さ。」
 「ええ、優しいお馬鹿さんだわ。」
 「えっ?」
 「大好きよ、お馬鹿さん。」
 千晶(ちあき)はそう言って史郎(しろう)に抱きつき、唇を重ねた。だが、二人は直ぐにその接吻を中断した。
 「く、苦しくって、駄目だぁ。まだ酸素が不足してる。こんなことしてたら、死んじゃう。」
 「本当。深呼吸、深呼吸。私も死んじゃいそう。」
 「お父さんとお母さんが心配してるんじゃないか、千晶(ちあき)? 送って行くよ。酸欠起こさないようにゆっくり歩いて行こうね。」  「有り難う。それで、あの日記はどうするの?」  「もう不思議な力はなくなったけど、記念に置いておくさ。僕等が明日のことを自分自身で決めた証(あかし)として置いておくのさ。」
 「私たちが親しくなったきっかけにはなったんだから、記念品でもあるんですものね。」
 「ああ。これはもう、明日を勝手に書き換えるための『明日の日記』なんかじゃない。」
 「今日からは、明日を考えるための『明日の日記』にすればいいのよ。そうでしょう?」
 「ああ、そうしよう。明日は、今日の自分たちが一生懸命生きているうちに自然に出来上がるんだってことを教えてくれた『明日の日記』さ。」
  史郎(しろう)と千晶(ちあき)は手をつないで深夜の町を歩いて行った。もう既にさっきまでの今日ではなく、さっきまでの今日の明日になった町を歩いて行ったのである。今日という日が不思議な力で支配された日ではないことをお互いの手の温もりで実感しながら、ゆっくりと歩いたのであった。


<次回から別のお話になります。お楽しみに>